こんにちは、みなさん。今日は、俺の英語に対する劣等感について書きます。
俺は、ある私立大学の大学院に行っています。専攻は臨床心理学です。俺は そこで、TOEIC (Test Of English for International Communication)の授業も 受けています。その授業で、実用的な場面における英語について、聞いたり話 したりすることを勉強し、実践しています。俺は、他の学部生と一緒に、その 授業を楽しんでいます。
俺はかつて、英語を聞くのも、話すのも、読むのも、書くのも嫌いでした。 誰かが英語で話しているのを耳にすると、俺の英語に対する劣等感は、どうし ようもなくかきたてられました。
その理由は、俺の親父が、高校の英語教師だったからです。親父は、「英語 のできない日本人は、この競争社会では無能だ」と考えていました。そして、 有名人について、例えば「宮沢喜一首相はすばらしい政治家だ。あの人は英語 ができるから」などと、英語ができるかできないかだけで評価していました。
そして、このような親父の教育態度によって、俺は完全主義者になっていま した。親父は、学歴の重要性をことさら強調していました。俺は、「俺は英語 ができるようにならなくてはならない。さもないと、誰も俺をこの社会の一員 として認めてくれない。」という強迫観念を持っていました。
しかし、英語ができるということは、俺たちが持っている多大な能力の、た った一つにすぎないことは、きわめて当たり前のことです。それに、英語がで きなくても、優秀なすばらしい人間は、たくさんいます。
俺は今、英語で話している内容が理解できると、とてもうれしく、わくわく します。
それは、俺の自己受容の程度が高まったからです。俺たちが英語を理解でき ないとしても、あるいは一流の学歴を持っていなくても、俺たちは、この社会に生きていく権利を当然持っています。そして、幸せな人生を歩むことができ ます。実に当たり前のことです。俺はこの数年で、このような常識が分かるよ うになりました。ですから、英語ができることに対する、俺のばかげた強迫観 念はなくなりました。
それに、英語に対する俺の完全主義がなくなったら、英語をとてもくつろい で勉強できるようになりました。俺は、英語で言われていることを、全部聞き 取って理解する必要はありません。そして、間違いをすることもできます。実 際、間違いをしなければ、英語は上達しないでしょう。
今や俺にとって、英語は、人物を評価する絶対的な尺度ではありません。俺 は自分のできる範囲で英語を勉強しようと思います。そして、英語だけでなく 日本語でも、海外からきた人々と楽しく話したいと思っています。
